3.11 -四年後-2015年03月11日 19時19分07秒



今日であれから四年。
復興への取り組みは続いているようですが、被災地が見違えるようににぎやかになって、とはやはり行きません。現地の人的パワーもまだまだ不足しているようで、その点では神戸という力のある町が中心となって復興を行った阪神のときよりも厳しい状況かもしれません。
しかしとにかく地道な取り組みが続いていくことが大事なのは、間違いないでしょう。風化して、忘れ去られてしまうようなことだけはないようにしなければなりません。

去年は一応東北旅行はできましたが、秋田県内だけだったので、今度は他の県にも行ってみたいものです。
(写真は2011年6月の松島)

20年2015年01月17日 20時43分22秒



今日で、あれから二十年が経ちました。

何度か書いてる気もしますが、あの日は就職前で完全昼夜逆転生活だったので、そろそろ寝ようかとしている時に、いきなり地響きと共に大きな揺れがやってきたのでした。必死で本棚を押さえたのでしたが、あれは危ないのでやっちゃいけないことですね。

関西で大きな地震が起こるというのは全く頭に無かったので、てっきり東海地震だと思い込みました。記録を残さないといかんと思って、揺れがおさまるなりNHKをつけてビデオの録画ボタンを押したのでしたが、第一報は神戸で震度6(後に震度7に訂正)というものでした。

生まれて二十数年、身近であんな大災害が起きたのは初めてのことで、あれから自然災害というものに対する感覚は全く変わりました。関西に住んでいた多くの人がそうだっただろうし、今では関東以北の人もそうでしょう。残念ながら、同じような自然災害はまた必ず起きるだろうと思いますが、もし自分が被災することがあったとしても、神戸の人たちのことを思い出しながら乗り切って行きたいと思います。

(写真は、初代機デジカメで撮影した1999年12月の旧居留地。この写真はまちなみ街道のトップページにも使っていたことがありますね)

3.11 -三年後-2014年03月11日 20時29分06秒



あれから三年が経ちました。
復興は、必ずしも順調には見えません。そもそもどう復興したらよいのか、途方に暮れる中で何とかしていこうとしているようにも思えます。元の場所に元のように町を作ればいい、というわけにもいかないのでしょうから。

少し時間が経過したことで、この東日本大震災と、近いところで起きた阪神大震災を、過去二十年のうちに起きた二つの大災害として並列にとらえるような見方が、自分の中で強まってきたことを感じています。どこで「次」が起こるかも分かりません。今はただ余力のあるものが、より困っている方たちを助ける、それでいいのではないかと思います。

今年は東北へ行く機会がありそうです。ただの観光にはなると思いますが、それでも行ってきたいと思います。

3.11 -二年後-2013年03月11日 21時02分14秒



あれから二年。まだ、二年だ。現地の復興は進んでいない。がれきの処理さえまだまだなのだ。先は長い。阪神・淡路の被災地でもそうだが十年、二十年単位で取り組んでいかなければならない。

思えば震災の一月半後に思い切って東北旅行に出かけ、そのまた一月後に被災地派遣で仙台に行って、それ以来東北へは行っていない。観光へのダメージも未だ回復していないようで、これではいかん。今年は何とかして東北へ行こう。
寝台特急日本海がなくなったのが、非常に残念だ。あの列車のおかげで、朝七時に角館に着けたのに。

3.11―1年後2012年03月11日 20時51分08秒



あの日から、早くも1年の月日が流れた。
しかし今でもあの時の映像を見ると、あの日の衝撃がありありとよみがえってくる。この記憶は、阪神大震災の記憶と共に、薄れることのないままずっと残るだろう。

予想していたとおり、復興はまだまだ進んでいない。この国自体が、長く続くだろう衰退の時代に入ろうとしている今、我々は被災地の方々と共に、まだまだ様々な苦難に堪え忍んでいかなければならないだろう。 ひたすら続く地道な努力の向こう側にしか、明日は訪れない。一足飛びに全てが解決する、などという幻想に逃げてはならないのだ。

胸の傷が痛んでも2012年03月09日 22時19分06秒


アンパンマンのマーチ」、この歌が実は名曲であることを改めて気付かされたのは、バニラダヌキさんの「ゆうこちゃんと星ねこさん」第一巻を初めて読んだ時のことだったが、震災の被災地の方々にとっても、ラジオで繰り返し流されたこの歌は随分励ましになったようだ。
震災後に東北を旅行した時にも、電車の中でこの歌を何度も聴いたのを覚えている。
間もなく、一年。

そうだ うれしいんだ
生きる よろこび 
たとえ 胸の傷が いたんでも

荒浜にて、オート110で2011年07月08日 20時26分15秒



仙台派遣の際に撮った110フィルムの現像が、ようやく上がってきた。写真屋では「ポケットフィルムですか!?」と驚かれ、さらには現像に二週間待ちとなったわけだが、この仕上がりを待つ間というのも悪くはない。

写真は、また仙台市荒浜地区の被災地だが、新しいデジカメのシャープで鮮明な写りとは全く異なる、粒状感を残した110フィルムの写りには、また別種のリアルな手触りが感じられる気がする。
少なくとも、これは現地で光学的に写し取った風景を化学的に転写した画像であって、電気信号として記録されたデジカメの写真とは全く違うものだ。この写真が手の中にあるということは、僕がその地に立ったという一つの証明であるようにも思えるのだ。

間もなくカメラとしての役割を終えようとしているオート110を、このような場面で活躍させることができて良かったなと思う。

ミッションコンプリート/荒浜22011年06月17日 20時57分04秒









新幹線に揺られること約五時間、無事に京都へ帰ってきました。それにしても、東北新幹線の扱いの悪さというか、あの席の狭さは不思議ですね。「のぞみ」に乗り換えて、足を伸ばしてほっとしました。

相当に気負い込んで出かけただけに、何か虚脱状態とでもいうか、不思議な気の抜け方をしています。当たり前ですが、京都は何も変わってなくて、それもまた不思議に思えたり。
荒浜の写真を、再度何枚か載せておきます。

大都会の夜2011年06月16日 20時47分38秒

五泊もするのか、長いなあと思っていた仙台派遣も、あっという間に最後の夜。なんだか名残惜しく、部屋に帰る気にもならずにアエルのスタバでなごみ中。

仙台はやはり大都会でしたが、町のサイズは人の感覚でつかみやすい、ちょうど良い大きさだと思います。東京や大阪みたいに、どこまでもひたすら都会でわけが分からなくなる、という非人間的な町では無いように思いました。派遣の前任者は、京都出身なのに東北大学に進んだという若手でしたが、良い学生生活が送れたのではないでしょうか。

肝心の仕事は、山積みの書類を地道に処理するような、何とも地味なもので、格好良くも勇ましくもありませんでした。しかし、この地道さの向こうにこそ、復興という目的地があるのだと思います。少なくとも、僕が作ったリストに載った人の中には、そのおかげで命が助かる人もいるかもしれません。自分では、十分納得の行く仕事が出来たと思っています。

荒浜にて2011年06月13日 20時47分48秒

というわけで、昨日から仙台に来ています。
今日は仕事の後、現地の社員さんにお願いして、荒浜地区を案内してもらいました。ニュースで見られた方も多いと思いますが、津波で集落が丸ごと流された場所です。
そこは、かつて町があったとは信じられないような、ただ荒れ地が広がるだけの場所でした。家々は、土台だけがその名残を留めている状態です。

その後、玉里千尋さんにも名前を挙げていただいていた「利久」をやはり薦められて、駅前の商店街にある店で牛タンを食べに行きました。大変美味しかったのですが、にぎわう大都会仙台と、先ほどの光景とのギャップがあまりにありすぎて、混乱せずにはいられなかったのでした。