ペガサスの朝2011年01月09日 21時00分46秒


そう言えば、昔は朝をテーマにした曲が結構あったな、なんてことを考えていて、ふと「ペガサスの朝」というタイトルを思い出した。どんな曲だったかなと検索してみて、そうだこの曲だった。いかにも80年代という感じの、さわやかな曲調がいい。こういう朝というのは、現代では絶滅してしまった気がする。

コメント

_ akisan ― 2011年01月10日 23時52分58秒

 では、Bさんのコメ欄に返信を書くのもおかしいかと思ってこちらに書きます。こちらでははじめましてです。
 Bさんが出すのってNFN大賞ですか。なるほど、だから純文学のにほひがあったわけですか。納得です。てっきり角川とフジテレビ共催のFBS大賞のほうかと思い込んでいました。
 あと、福井先生と大沢先生にスポットライトがいったのは、銃撃戦が福井先生で、ファンタジー部分が純文学よりで書いたときの大沢先生(あと純文学よりで書いた時の北方謙三も微妙に)で合体させたんですけど、ずれてんですかねぇ。俺にはあれが一種のハードボイルドに見えたんですよ。
 うん。やっぱ純文学でしかも新人賞に出すとなると、自分では基準があやふやです。かといって「面白いです。凄いです」ってそのまま書いてもなんの参考にもならんと思ったのですよ。プロトタイプの段階で散々書かれたこと繰り返されても困るんじゃないかって。だから俺は感じたままの感想書いたんですよね。自分なら賞に出す前、なんでもいいから別の人から新しい刺激がほしくなるな、と思ったんです。
 うん、Bさんがここ見てたら、俺の意見は気にしないでくれればなんの問題もないんですが。

 
 さて次、ラノベに関して。
 Bさんが十本まで残ったのって、初期の靴文庫ですかね。うらやましい限りです。ラノベは大人向けの書いてもある程度実力があると受賞でしたっけか(ただそのあと二巻目出すときに編集部とひと悶着するのも伝統みたいですね、若者向けに方向を修正しろって)。いまはMW文庫って大人向けのファンタジーレーベルが新設されたのでそっちに投稿するほうが標準っぽいですが。こちらなら最初から大人向けなので問題はないですが。どうなんだろ、あの作品をぱっと見た感じ、BさんMW文庫もいける気がするんですけど、また一味違うのかな。

 自分が方法論に囚われている感じですか。きっと色々な新人賞で二次落ちして選評で散々「世界観が独特すぎて若者向けではない」って書かれたことが原因でしょうねぇ。

_ 天野橋立 ― 2011年01月11日 19時28分41秒

こんにちは、いらっしゃいませ。いや、あちらのリンクからここへ来られた方は、akisan さんが初めてだったりします。どうも、どうも。
 あの横レスは少々厳しめの書き方になってしまったかなあと反省しつつ、しかしakisan さんならああ書いても変な具合に(喧嘩を売ってるかのように)受け取られることもなかろうと 思った次第です。

 無難な誉め言葉ばかりになってしまっても仕方ない、というのはまさにおっしゃるとおりで、Bさんもあの感想を新鮮な切り口のものとして、決して悪く受け取ってはおられないと思います。
 ただ、さすがにアクション小説として読んだという感想はちょっとあんまりかなと思ってああいう口出しに及んだ次第です。
 敢えて分類するなら、幻想文学ということになるのじゃないでしょうか。もっとも、僕も幻想文学の代表作と呼べそうなものは「ドグラ・マグラ」とか「百年の孤独」ぐらいしか読んでいないので、あんまり偉そうには言えないのですけども。幻想文学が純文学になり得るかについては、村上春樹氏の作品に代表されるように、「純文学として読まれ得る幻想文学は存在する」ことは間違いないかと思います。ただ、Bさんの作品はどちらかというと古典的正当派エンタメと呼ぶべきであって、純文学とは方向性が違うかなという気もします。

 akisanさんの感想を拝見していますと、「この作品は○○というジャンルの作品として読みましたが」などという書かれ方が大変多いように思います。しかし、僕の感覚では、そういうジャンル分けというのは作品を最初に読む際には余計なことなのではないかと思っているのです。まず作品があって、それを読んだ上での感想があり、その先の分析に当たってはジャンル分けは有効かも知れませんが、まずジャンルを決めて読むというのはどうなのでしょうか。例えば僕がライトノベルを読む場合でも、一般小説を読む場合と視線は変わらないと思います。今回の感想など、それが裏目に出たケースのように僕には思われます。
 この手のセグメンテーションは、マーケティングに於いて用いられる手法ですよね。つまり、前もってジャンルを決めて読むというのは売り手側(=出版サイド)の視線であって、どうもakisanさんの書き手としてのありようは売り手側と一体化されてしまっているんじゃないか、そんな気がします。それがその「選評」によるものなのだとすればなかなかやっかいな話で、売れるかどうかだけの基準による批評は、創作者としての可能性を著しく制約するものにならないでしょうか(だから、某猫さんはそれがいやで添削受けるのをやめておしまいになられましたよね。良く分かります)。

 ちなみに過去ログによれば、Bさんがスニーカーでベスト十まで残られたのは、三年ほど前のことのようですよ。他の賞にも最終まで残られた作品、二次までなど色々のようです。率直に言って、僕はあそこではBタヌキさんの作品を実力的に全くの別格視して読んでいましたが、それらの事実を知った時は、僕の目もそれほど節穴では無いらしいと、ほっとしたものです。勝手な推測ですが、Bタヌキさんはお仕事の方でずっと強制的に「消費者様」の方ばかり向かされてきて、創作では二度とそれはするまいと決意されたんじゃないか、そんな気がしています。
 それでは、またあちらで。

_ akisan ― 2011年01月11日 21時07分48秒

○お礼を残してから帰りますね。

 まず、指摘をされることは大丈夫です。むしろ他者さんも感想書くときもっと突っ込んでほしいぐらいです。自分は思考が固定化しやすいから、数多くの人に何か言ってもらえないと思考が柔らかくならないのです。

 売り手側と一体化している、というのは実に鋭い指摘ですね。いや、本当にさすがだ。まさにその通りです。で、売り手側一体化と消費者側の視点に関しては、レーベルごとで結構違うんですよ。市場原理中心で受賞するか、創作者としてを強めて受賞させるか、というのは。
 スニーカー賞は受賞者に冲方丁先生がいるぐらい、なんでもありな場所です(問題作「されど竜は罪人と踊る」を輩出したぐらいですから)。自分が今連載しているやつも、某猫さんのBLも、Bダヌさんのも、面白ければなんでも受け入れてくれます。あと有川浩先生を出してる電撃もなんでもありですね。
 でも比較的あたらしめの新人賞は市場原理の場所が多いですね。中高生に売れない作品、またはライトノベルとして先が見えないものは二次か三次で落としてきます(賞の募集要項に「若者向け求む」「女の子出てないと受賞させない」とはっきり書いてあるところまであります)。過去には市場原理無視して受賞させたことが1・2回目まであっても、それがさっぱり売れないので、3回目ぐらいから方向転換したという場所もありますね。
 と、いうわけで、出すレーベルによって味付けに関する懐の広さと深さが変化してくる、という状態になります。もしくは出来上がった作品によって投稿するレーベルを変える、ということですか。
 妙な話ですけど、ライトノベルのカラクリが解けたと思われます。
 興味と時間があったら榊一郎先生の「ライトノベル作家の作り方」・冲方丁先生の「ライトノベルの書き方講座」を見ていただけると、よりわかりやすいと思われます。

 あと、自分はもしかしたら執筆者としては変わっているのかもしれませんが、市場原理でも創作者原理のどちらを使ってもいいから、読んでくれた人に「面白い」って言ってもらえる瞬間がとにかく好きです。そういえば、これに近いことをU野さんや某猫さんとも話し合ったっけなぁ。みんなワンポイントずつ譲れないところがあるんだなぁってわかったのが収穫でした。
 
 すんません。お礼だけいうつもりだったのに、長くなりました。
 では、また登竜門でお会いしましょう。
 もしかしたら、たまにブログのぞくかもしれません。
 では。

_ バニラダヌキ ― 2011年01月12日 23時54分02秒

……お邪魔むし。……もとい、お邪魔狸。

ふっふっふ、狸はネに持つぞak様……なんちゃって。
「世界観が独特すぎて若者向けではない」とゆーのは、以前狸も最終選考時に言われたことのある、「確かに面白い。しかし面白いだけじゃだめだ。誰が買ってくれるかがわからないと」、とまあ、それと同じことなんでしょうね。
大丈夫です。そーゆー編集者が大々的に受賞させた方々が、ほとんどあっという間に消えてますから。
結局、『読んでくれた人に「面白い」って言ってもらえる瞬間がとにかく好き』、その原初的欲求に従って生きるしかないのが、芸人の宿命かと。
しかし、古典的本格ヘヴィメタバンドのリーダーが、「女子中学生に売るからソフトなビジュアル系やれ」と言われたら、やっぱりジャーマネをフクロにすると思われ。
やっぱし己の魂に従うしかない……ああ爺臭い。

……なんか天野様をないがしろにしてしまって、すみませんすみません。

_ 天野橋立 ― 2011年01月13日 20時09分34秒

 おお、噂をすればバニラダヌキさんだ。いらっしゃいませ。

 いや、しかし皆さんそう言う選評をもらえているだけうらやましいような気がしますね。僕も若かりし頃にはあちこち応募したものですが、全く箸にも棒にもかからず終い。途中選考通過発表に、自分の名前が載っているのを見ることもありませんでしたからねえ……。もっとも、「文学界」だの「群像」だのに、どう見ても純文学でも何でもない妙なものをせっせと送ってたのだから、今振り返ると何とも可笑しい気がします。

 筒井康隆さんのエッセイだったかに、小説教室の主催者である八橋一郎氏(この教室、京都のカルチャーセンターでやってたので、実は通おうかと思ったことがあります)が「新人賞を取るテクニックを教えるのはそんなに難しくないが、まずその後が続かない」と嘆いていた、とかいうエピソードがあった気がしますが、傾向と対策による「お稽古事文学」には結局限界がある、ってことなんでしょうね。

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